沖縄戦と収容所時代を経て、やっと・・・
そんな人々の生活をまたも米軍基地は奪っていく。
[まぶたの裏の美田 「伊佐浜」強制接収の記憶]
地元の米は病気も治す「薬」 沖縄戦で荒れ果てた美田 やっと復活させたのに米軍が禁止
2021年5月31日
#まぶたの裏の美田 「伊佐浜」強制接収の記憶
平島 夏実
澤岻安一さん(98)
「蚊が発生して流行性脳炎の原因になるから、稲を植えてはいけない」。
そういう禁止令を手始めに、米軍が66年前に強制接収した美田がある。宜野湾市の国道58号沿いの「伊佐浜」集落。戦前は「北谷ターブックヮ」と呼ばれる評判の米どころで、木々に囲まれた一画に32世帯が屋敷を構えていた。
今は米軍キャンプ・瑞慶覧の中。「伊佐浜」は交差点やバス停の名前としてだけ残る。
「海へ遊びに行くと、まともな農家になれないと言われてね」。伊佐浜出身の澤岻安一さん(98)は子どものころ、伊佐浜の田んぼでエビを捕まえて遊んだ。狙うのは尻尾。ヤシの葉が輪になるよう竹に通し、尻尾にくぐらせてヒュッと締めた。熱冷ましに効くターイユ(フナ)もいて、あぜ道にはカニが穴を掘って住んでいた。
当時の沖縄の主食はサツマイモ。米といえば台湾から輸入した「蓬莱(ほうらい)米」で、米の自給率は二期作が普及した1939年時点でも36%に過ぎなかった。貴重な島米の産地だった伊佐浜は沖縄戦で荒れ果て、その後、生き残った住民がよみがえらせた。
「今考えるとよくやったもんだ」と澤岻さんは振り返る。従軍中、ベトナムで左足に砲弾の破片を受けたが命拾いした。宜野湾への帰村を許されて初めて、本島南部で捕虜になりハワイから戻った父と再会。普天間収容所の大きな黒いテントから2~3カ月ほど田んぼに通い、親子でゼロから耕し直した。夜間に収容所を出ると米軍憲兵(MP)に捕まるため、作業ができたのは昼間だけだったという。
田んぼは、境界が分からないほど「ハワイ草(センダン草)」が茂っていた。「足を入れても地面に付かないくらい、一面、根っこがスポンジのように浮いていた」。田んぼの一部は軍道1号線(現国道58号)の用地に取られたため、耕し直せた敷地は戦前の3分の2程度にとどまった。
残った草の根に苗がひっくり返されることもあり、収穫が安定したのは収容所から伊佐浜に移って6~7年後。エビやターイユが戻ってきた。米軍の粗悪な配給米と違い、当時の島米は病気が治る「薬」。澤岻さんの母は、島米を歩いて売りに行くようになった。
「米軍が田んぼを敷きならして使うとは思っていなかった」と澤岻さんは証言する。北谷方面には長い兵舎が2、3棟見えたが、増築の動きはなかった。田んぼの向こうの台地は、戦前の松林やサトウキビ畑が消えて戦車置き場に変わっていたが、放置されたままで見張りの兵士すら見かけなかった。
「これからずっと農業ができるんじゃないかと期待していたところに出たのが植え付け禁止令。私たちの反感はものすごかった」と澤岻さんは話す。別の住民の1人は当時の新聞にこう訴えている。「(戦後の開田作業で)倒れるまで働くお年寄りの気持ちは何と言っていいか分からない。言うに言われぬ辛苦を重ねて開けた田んぼを、今から作付け禁止は困ります」。(中部報道部・平島夏実)
◇ ◇
宜野湾市立博物館がこのほど、冊子「伊佐浜の土地闘争」を発行した。冊子を基に、美田が奪われた記憶をたどる。
耕し直した美田 米軍が囲み住民追い出す 無念の農民ら集結 島ぐるみ闘争の源流に
壊された家の資材を運び出す作業員(1955年、宜野湾市立博物館提供)
仲村元惟さん(84)
「人間、不思議なものでね。どんな家にどんな家族が住んでいたか、今でもはっきり覚えている。はだしで歩いた田んぼのあぜ道さえ、頭の中には残っているんです」
米軍がキャンプ・瑞慶覧建設のために強制接収した宜野湾村(当時)伊佐浜集落の出身、澤岻安一さん(98)は言う。
沖縄戦を生きた住民が収容所から通い、耕し直した伊佐浜の美田。1955年7月、武装した米兵が未明に現れ、集落ごと鉄条網で囲み、住民を追い出した。海岸からはしゅんせつ船が汽笛を鳴らして近付き、陸地へパイプをつなぎ、海水混じりの土砂を流し込んだ。「泣き喚く婦人子供ら」「失神の老人も出る騒ぎ」と当時の新聞は報じた。
集落にあったかやぶき家、廃材を集めたトタン家など32戸が、ブルドーザーやツルハシで壊された。県出身の軍作業員もいて「朝3時出勤と言われ、コーラ1本を飲まされて行かされました」と語る。
野嵩高校(現普天間高校)の2年生だった仲村元惟(もとつね)さん(84)は、夏休みのバレーボールの練習中に強制接収を知った。複数の琉大生が、メガホンで叫びながら校門の前を通り過ぎた。バレー部の先輩に伊佐浜出身者がいたという仲村さんは「高校生でも集まれば力になれるという気持ちだけで伊佐浜へ走った」という。
銃を肩に掛けて鉄条網を張る米兵を目にすると「ムカムカッときた」。小石を次々投げたが、米兵のヘルメットを狙ったのはやはり怖さがあったからだと話す。
昼すぎには、沖縄中から約1万人が伊佐浜に集まったとされる。「銃剣とブルドーザー」で接収された真和志村(現那覇市)、小禄村(同)、伊江島からだけではない。これまで声を上げたくても上げられなかった各地の農民の姿があった。米軍は沖縄占領と同時に接収を始め、軍用地として無償で使い続けていたからだ。
ただ、仲村さんは、人だかりの中に「肝心の宜野湾出身の政治家がいないのはなぜなのか」と違和感を持ったと明かす。伊佐浜は、首里の士族(屋取)が移り住んで1800年ごろに築いた集落。農民主体の本集落との関わりが少なかったせいか、「あくまで伊佐浜の問題」とされている印象を受けたという。
屋取集落と本集落の分断が垣間見えた一方、米軍統治を正面から批判する「島ぐるみ闘争」のうねりを呼んだ伊佐浜。高校生として当時の熱気に触れた仲村さんは「今の時代は『ゆーわかやー』(物分かりのいい人)が増えて、実際に行動する人が少なくなった」と感じている。(中部報道部・平島夏実)
移民先のブラジルの奥地にアリの大群 稲作で暮らせず帰国 米軍に美田を奪われ「無念」
2021年6月2日 17:02
平島 夏実
大山小学校に避難した伊佐浜住民と山積みの芋(1955年、宜野湾市立博物館提供)
ブラジルへの移民船「チャチャレンカ号」と見送りに集まった人々=1957年年8月20日、那覇港(澤岻安三郎さん提供)
宜野湾村(当時)伊佐浜で生まれた澤岻安三郎さん(78)は、湧き水を引いた実家の田んぼを覚えている。幼少期に土作りを手伝った。「カズラの葉だったと思います。肥料になるように、はだしで押し込みましたよ」
田んぼは戦後、収容所で再会した父と兄が耕し直した。一帯には32世帯が廃材で家を建てた。だから思う。「同じ軍用地でも、戦争中に取られたのと、戦後に生活を始めてから取られたのとでは、随分違うのではないでしょうか」
伊佐浜集落は、移住先が決まらないまま1955年に接収された。代替地を干拓するよう求める住民もいたが、政府と米軍は技術面や費用面で困難視。接収後、約1カ月間にわたって宜野湾村の大山小学校が仮住まい先になった。
「教室の隅に荷物を置いて、ござを敷いて寝起きしていました。風呂も学校の水道を使って水浴びしたぐらいでした」と住民の1人は証言する。人々は学校から畑に通い、米軍のブルドーザーの隣で芋を掘り起こした。くわを持って入ることは許されず、素手での作業だった。
やっと決まった移住先は、インヌミヤードゥイと呼ばれる美里村(現沖縄市)高原。耕しても耕しても石ころが出てくる痩せた土地で、トタン屋根の規格住宅は間もなく、台風「ワンダ」で倒壊した。
「移動資金も手持ち資金も使い尽くした」「生産が上がらないので食糧は全部買っている」「将来の見通しがつかないので、籍はまだ宜野湾に置いてある」-。インヌミに移住した23世帯は困窮した。一方、屋敷の接収を免れた伊佐浜住民は田畑を奪われて失業状態。車洗いなどの日雇いの仕事でしのぐしかなかった。
この先、どうすればいいのか-。援助を求め続ける住民を、琉球政府(当時)は農業移民としてブラジルへ優先的に送り出すと決めた。澤岻さんは「簡単じゃないですよ。家族の問題もある」と指摘する。自身は中学3年の夏休み、きょうだいを残して父母と3人でブラジルに渡った。移民するかどうか意見がまとまらず、離婚した人もいた。
澤岻さんが向かった先は、県出身者が経営するコーヒー園。伊佐浜には電気が通り、湧き水を使った「簡易水道」があった一方、新居は石油ランプと井戸水だった。コーヒー園から奥地に引っ越した後はアリの大群と闘いながら陸稲を育てたが、生活は安定しなかった。激しいインフレも影響し、8年後に帰国した。
その間、政府からの視察は一度もなかったと記憶する。「家を造ってくれとか生活を補償してくれとか、厄介者はもういいよということだったかもしれない」と澤岻さんは考えるようになった。
ブラジルで事業を起こし、成功した住民もいる。だが、伊佐浜は、美田を基地に取られ、住民が散り散りになり、住所としても残らなかった。基地の返還後は、跡地のどこかに「伊佐浜」の呼び名を付けてほしいと澤岻さんは望む。「当時の人はみんな無念なんですよ。そこには人が住んでいたわけですから、覚えていてほしいんです」。
(中部報道部・平島夏実)