米軍の本音 「プランBは普天間フォーエバー」

 

日本人が理解する必要があることは、米軍の「条件付きの返還」は「返還」ではないし、「返還」する気もないという意味です。忘れないように記憶しておきましょう。

 

何の驚きもない米軍の本音と、日本政府の真実隠し。

 

「プランBは普天間フォーエバー」米政府高官は妥協の合意を優先した ~ 「未完」の辺野古 知られざる事実を追う

ワシントン=清宮涼2024年8月27日 14時00分

 

 米海兵隊内部で軍事的な有用性について疑問がもたれている辺野古移設。埋め立て予定地の大浦湾の軟弱地盤問題などで建設工事も遅れている。それでは、なぜ日米両政府は問題を抱える現在の「V字形滑走路」の現行案で合意したのか?

 

 日米両政府が合意したのは、今から18年前の2006年5月のこと。米側代表を務めたリチャード・ローレス元国防副次官(アジア・太平洋担当)が取材に応じ、当時の緊迫した交渉の舞台裏を明らかにした。

 

    【そもそも解説】「辺野古」の原点とは何か、混迷の真相

 

取材に応じるリチャード・ローレス元米国防副次官=ワシントン、清宮涼撮影

 「キャンプ・シュワブで日米が合意できなければ、プランBは『FIF』だ。永遠に普天間だ(Futenma is forever)」

 合意に先立つ05年当時、日米両政府は普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の米海兵隊基地キャンプ・シュワブ(同県名護市)沿岸への移設案を協議していた。これに反対し「『プランB』があるはずだ」と主張した日本側に、ローレス氏は業を煮やし、何度もこう迫ったという。

 ローレス氏は当時、日本側に対して合意する必要性を主張していたという。「日本の官僚には日米が合意できないだろうと思っていた人もいたようだった」と語る。
V字形滑走路、日米の「政治的妥協」が生み出した

 

部隊視察をするラムズフェルド米国防長官(当時)=2003年11月16日午前11時50分、米軍嘉手納基地で

 日米両政府が06年5月に合意したのは、キャンプ・シュワブ沿岸を埋め立てて2本の滑走路をV字形に配置する現行案だった。ローレス氏は、これは日米両政府の政治的妥協が生んだものだった、と振り返る。

 

墜落、炎上した米軍ヘリ(中央下)と黒こげになった沖縄国際大の校舎=2004年8月13日午後7時すぎ、沖縄県宜野湾市

 

 米側のミッションは、住宅密集地にある普天間飛行場が日米同盟に悪影響を及ぼすとして、新たな移設先を探すことだった。周囲を市街地に取り囲まれ、「世界で最も危険な飛行場」とも言われている。03年に上空から視察したラムズフェルド米国防長官(当時)が「事故が起きないほうが不思議だ」と語り、移設促進を指示。04年には実際に宜野湾市内の沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落する事故が起きている。

 しかし、その後の日米間の交渉では移設をめぐって多くの案が浮上しては消え、ローレス氏は遅々として交渉が前に進まないことにいら立ちを覚えていた。日本側に対し、「何があなたたちの解決策なのか、提示してほしい」と求めたと振り返る。

 日本政府と沖縄県との調整が難航する中、ローレス氏は日本側に「日本政府が沖縄県と交渉し、日米の話し合いを説明しなければならない」とも強く求めた。

 日米両政府が10近くの案を検討したなかで、「V字形滑走路」の現行案は「土地を最大限利用し、安全性を最大にするものだった」とローレス氏は語る。米側は、キャンプ・シュワブの区域内にすでにある米軍施設を、代替施設のためにどれほど移動させるかをめぐっても日本側と交渉した。「これ以上は、キャンプ・シュワブの土地を(代替施設に)使うことはできない」。米側が譲歩できるラインを日本側に伝え、日本は受け入れたという。

 米側がこだわっていたとされる辺野古の南方沖合の浅瀬を埋め立てる案(通称「名護ライト案」)については、ローレス氏は地元沖縄の政治家らに支持する声があったものの、滑走路の安全性や施設のスペースなどの問題から最終的には選ばれなかった、と振り返った。

 

 

米政府内、海兵隊辺野古移設に強く反対

 日米が合意にこぎつけた「V字形滑走路」を作る現行案。しかし、ローレス氏は、当時、米海兵隊の強い反対に遭ったことも明かした。

 「率直に言えば、海兵隊は日本側が提案した案を好まなかった。40年間いた場所(普天間)から彼らを離すものだからだ」

 日米両政府が辺野古移設を「唯一の解決策」と本格的に強調し始めるのが、第2次安倍政権に入って以降だ。13年の日米外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)の共同発表文書では、辺野古移設が「普天間の継続的な使用を回避する唯一の解決策」と明記した。

 とはいえ、現在に至るまで海兵隊関係者からは「V字形滑走路」の現行案では滑走路が短く、地盤も軟弱だとして、軍事的な有用性を疑問視する声が上がっている。このことについて記者が尋ねると、冗舌だったローレス氏が初めて数秒、沈黙し、天を仰いだ。言葉を選びながら、こう語った。

 「説明するのは難しいが、海兵隊には沖縄での彼らなりの歴史と感情がある。最善の結果を得るために、海兵隊と交渉することは難しかった」
写真・図版
取材に応じるリチャード・ローレス元米国防副次官=ワシントン、清宮涼撮影

 そして、続けた。

 「全員を満足させることはできない」

 ローレス氏は、日米間の合意形成を優先せざるをえなかった事情をにじませつつ、最終的には、海兵隊は日米の合意案を尊重した、との見方を示した。

 沖縄県外への移設の可能性も含めて検討を重ね、こぎつけた日米の合意。ローレス氏は、こう意義を強調した。

 「米軍が沖縄を離れたら、日本に対する(日米安保)条約上の義務を果たすことができなくなる。我々ができるのは、辺野古への移設だ。そうでなければ、永遠に普天間に居続けることになるのだ」

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 米政府内で当事者の米海兵隊の反対論に直面しながらも「政治的妥協」の末に決まった辺野古移設。それでは「V字形滑走路」の現行案に合意した日本側の事情はどのようなものだったのでしょうか。次回は、ローレス氏と交渉にあたった守屋武昌・防衛事務次官(当時)ら日本側の証言に迫ります。(ワシントン=清宮涼