伊佐浜の強制接収 ~ 「こんなことがあっていいのか」目の前で繰り広げられる不条理 (沖縄タイムス)

沖縄タイムスの記事

 

「こんなことがあっていいのか」目の前で繰り広げられる不条理 復帰後も「憲法番外地」[憲法への視線 適用50年の沖縄から]
2022年5月4日

[憲法への視線 適用50年の沖縄から](3)土地接収 弁護士 池宮城紀夫さん(82)

 

 

 目の前で繰り広げられる不条理に何もできず、ただただ恐怖におびえた。悲鳴を上げ、泣きわめく住民、怒号を上げ抵抗する人々に銃剣を突き付ける米兵-。

 1955年7月19日早朝、旧宜野湾村伊佐浜を米軍の武装兵が取り囲み、土地の強制接収が始まっていた。「こんなことがあっていいのか」。取材で訪れた弁護士の池宮城紀夫さん(82)=那覇市=は、立ちすくんだ。

 当時15歳で、那覇高1年生。毎日新聞の通信員だった父・秀意さん(故人)は結核を患い、自宅療養中だった。「おまえが行って見てこい」と中古カメラを渡され、向かった現場。集落ごと鉄条網で囲まれ、銃剣を手にした米兵の背後でブルドーザーが次々と家や畑をなぎ倒した。

 サンフランシスコ講和条約の発効で沖縄が日本から切り離された翌年の53年、米国民政府は軍用地を強制取得するための布令第109号「土地収用令」を発行。55年7月までに真和志村(現那覇市)安謝・銘苅、小禄村(同)具志、伊江村真謝、伊佐浜などで次々と土地を収奪した。

 池宮城さんは戦時中の44年8月、米軍の攻撃で1480人余が犠牲になった学童疎開船「対馬丸」の1便前で熊本に疎開していた。戦場は知らず、伊佐浜で軍隊の暴挙を初めて目にした。「人権蹂躙(じゅうりん)そのもの。想像以上の混乱だった」

 写真を撮ったかどうかも記憶にない。メモも取らず見たままを父に伝えた。ただ、現場の光景は今も頭にこびり付いている。人権を無視する米軍への怒りが弁護士活動の原点となった。

 琉球政府裁判所の書記官を経て、71年に弁護士登録。70~80年代の金武湾闘争を巡る訴訟や、反戦地主による土地闘争の弁護団など、米軍基地に苦しむ住民を支えてきた。82年提訴の第1次嘉手納爆音訴訟では、2年前から原告団の立ち上げに奔走した。

 裁判を繰り返すたび、日本国憲法がうたう国民主権、平和主義、基本的人権を柱に挑んだ。一方、人権の砦(とりで)であるはずの最高裁でさえ「憲法を否定し、日米安保条約地位協定を重んじる判決」で沖縄側の訴えを退け続けた。

 今年1月に第4次提訴した嘉手納爆音訴訟は、爆音の違法性を認めても飛行差し止めは認めない判決が続いている。伊佐浜の強制接収など米軍統治下の「無権利状態」が形を変えたものだと感じ、司法の存在意義さえ疑う。

 米軍統治下に基本的人権はなく「平和憲法の下へ」と復帰を願ったが、復帰後も米軍の事件・事故は絶えない。辺野古新基地建設や宮古八重山自衛隊配備など基地強化は続く。憲法闘争、反基地裁判闘争に関わって50年余り。常に「沖縄は憲法番外地」だと思う。(社会部・新垣玲央)

 

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