「娘さんは元気で生きている」とうそをつかれ…実は虐殺されていた 強制移住先で起きた惨劇

 

「娘さんは元気で生きている」とうそをつかれ…実は虐殺されていた 強制移住先で起きた惨劇

[ボーダーレス 伊江島の78年](2)

2023年1月13日

 

 米軍は沖縄戦伊江島を攻略すると、日本本土攻撃の拠点に使うため全住民を島外に追い出した。激烈な戦闘を生き延びた住民は、米軍の船で運ばれた慶良間諸島で、今度は日本軍の敗残兵に直面した。

 

 安里正春さん(84)は渡嘉敷島で、姉安子さんを失った。山中にこもる赤松嘉次大尉の部隊に投降を勧告するため、米軍が伊江島住民の男女6人を派遣した。安子さんも選ばれてしまった。

 

むごい最期

 

 赤松隊は6人に理不尽なスパイ容疑をかけて虐殺した。最期についてはいろんな証言があり、どれが本当か分からない。どれも、むごいものだ。

 

 安子さんが「親に一言も言わないで来た。せめてお母さんに会わせて」と哀願するのを兵士が「あの世に行って会え」と切り捨てた、「助けて」と叫んで逃げる安子さんを日本刀を持った兵士が追いかけた、木に縛られて白骨化していた-。安子さんが家族の元に帰れなかった事実だけは変わらない。

 

 窮乏していた赤松隊は夜陰に乗じて下山し、安里さんの父正江さんに「娘さんを預かっている。毛布を持たせてください」などと物資をせびった。「元気で生きている」とうそを聞かされ、正江さんは娘を殺した赤松隊に着物を持たせた。

 

「まだ生きていたのか」

 島で集団自決(強制集団死)を引き起こし、さらに住民や朝鮮人軍夫十数人を直接虐殺した赤松隊は1945年8月、ようやく投降した。赤松大尉の姿を見た正江さんは、殴りかかろうとして米軍に制止された。「裁判にかけるから」と言われ、思いとどまった。

 

 25年後、赤松大尉が渡嘉敷島の慰霊祭に参加するため来県した。新聞を読んだ安里さんがそのことを伝えると、正江さんはじっと下を見て言葉を絞り出した。「まだ生きていたのか。戦争犯罪人として処刑されたと思っていた」。日本復帰にも「日本人は野蛮だ」と言って反対した。

 

「早く迎えに来て」母も早世

 母マサさんは夜、「安子、なぜ早く迎えに来ないか」などとうなされた。病気がちで心労も重なり、50代前半で亡くなった。

 

 45年に伊江島から移住させられたのは渡嘉敷島へ約1700人、慶留間島座間味村)へ約400人の合わせて約2100人。山を下りた元々の住民と合わせて6700人分を養う食料は島々になく、米軍の配給も全く足りなかった。

 

 慶良間諸島の住民は米軍宛ての陳情で訴えた。「老人、小児は殆(ほとん)ど栄養不良に陥り、近時余病を併発し多数の死者を見るに至れり」。配給と、伊江島住民の島外移転を求めた。

編集委員・阿部岳)