久米島資料集

 

 

語り継ぐ沖縄戦2011 (2) 久米島住民虐殺ひも解く証言

QAB NEWS Headline

2011年6月21日

f:id:neverforget1945:20190626025445p:plain

 

盛元さん「首に紐をくくって道は、こっちから海岸のところへ引っ張っていて見せしめの為に引っ張っていったという風に言われています」

 

アメリカのスパイだとして住民を虐殺する日本軍。ずっと沈黙を守っていた島の人たちが、去年ようやく当時のことを語り始めました。

 

喜友村さん・譜久里さん・喜久永さん「(敗戦を知らない友軍は)アメリカにひいきする奴はやるよ(殺すよ)という状態だったですからね。日本は、勝つとしか考えないから。疑心暗鬼でですね。人を信用できなくなるわけですよ」

 

当時、久米島で指揮をとっていた鹿山隊長は、住民たちに命令文を出し監視していました。

 

アメリカ軍と接触したものが、帰ってきた直ちに軍駐屯地に引き渡すこと。その命令に違反したものはスパイとみなしその家族はもちろん警防団長区長は銃殺する』

 

アメリカ軍が海岸から上陸すると、日本軍は住民に対し不信感を抱き、厳しい目を向けます。そして20人の命を奪いました。

 

久米島には住民1万人に対して、日本兵はわずかに30人。全ての住民がアメリカ軍に取り込まれるのではと恐れた日本軍の猜疑心が虐殺へとつながりました。

 

宮平さん「軍隊服は着ないで普通の住民の服を着ているから、だれが兵隊かわらない。だからそれが怖かった」

 

さらに、日本軍はスパイを養成する陸軍中野学校の卒業生を教師として住民の中に潜伏させ、諜報活動をしていました。

 

上原敏夫(本名:竹川実)は1945年1月に久米島の具志川国民学校に赴任。村長の娘と結婚し、住民たちからも厚い信頼を得ていました。

 

上原先生の任務は「アメリカ軍に情報を流出させないこと」。つまり、住民たちをスパイにさせないよう見守ることでした。

 

島袋由美子さん「鹿山隊長が山から降りてきて役所とか農業会でいろいろ用事をして、帰りはそこ(上原先生のところ)に寄ってずっと話をしたり、そういうことはやってましたって」

上原先生の下宿には、当時、鹿山隊長が頻繁に訪れ情報交換をしていたと言います。

 

6月14日の警防団日誌。上原先生の名前で、アメリカ軍が上陸した場合、どのような警戒をしたらいいかなど、鹿山隊長との打ち合わせが記入されています。

 

国民学校で上原先生の同僚だった譜久里藤江さんは、学校内に置かれていた上原先生の不思議な荷物を記憶しています。

 

譜久里藤江さん「座ろうとしたら、それはご先祖の位牌だから座るなといわれて。ご先祖の位牌に座ったりしたら不敬ですよね。だからびっくりして。多分あれ(手榴弾)じゃないですかね、島の人が降伏したらあれだということで」

 

アメリカ軍が上陸すると住民から情報が漏れることを恐れた上原先生。譜久里さんにだけ、こんな計画を吐露しました。

 

譜久里さん「久間地の部落に集結させて玉砕させると言いよった。自分の家族を犠牲にしたくないから、会わないようにした」

 

譜久里さんは66年間、胸にしまっていた思いを話してくれました。

 

譜久里さん「あの時は、もう本当に軍国少女だから。ずいぶん尊敬していました」

 

譜久里さんは軍国少女として、命を投げ出して戦おうとする上原先生に憧れ、鹿山隊長へ尊敬の念を抱き、日本軍にも率先して協力していました。

 

しかし、自宅近くにアメリカ軍の兵舎が設営され、小さな姪にアメリカ兵が缶詰や菓子を渡したとたん、その思いは裏切られます。

 

譜久里さん「米軍と接触したということで(日本軍の虐殺)リストに載ったわけです。うんと山の兵隊に協力したのに(虐殺)リストにあがっているんですよ。あと2日後にやるということで」

 

アメリカ軍の兵舎が近くにあった譜久里さん一家を含め、9件の家族が2日後に虐殺されることになっていたのです。

 

日本軍に協力して裏切られ、アメリカ軍と接触したといって虐殺される譜久里さんは戦争の不条理さを嘆きます。

 

譜久里さん「もう二度と戦争は起こすな。もうこれ以外はないです。人間が人間でなくなる」

 

今回取材を通して感じたことは、戦争というのは急に来るものではなく、徐々に組み込まれていくもの。いざ戦争になってしまったらいくら平和を訴えても遅いということと、誰も守ってはくれないということでした。そうならないためにも、社会を見る目、教育はどんな方向に向かっているのか、マスコミの報道はどうなっているのか、それぞれが注意深く監視することが求められています。

 

「戦争終わったよ」投降を呼び掛けた命の恩人は日本兵に殺された 沖縄・久米島での住民虐殺

琉球新報

2019年6月22日 10:05

f:id:neverforget1945:20190625042102p:plain

沖縄戦での久米島で、米軍から逃れて自死しようとして住民の呼び掛けで一命を取り留めた渡嘉敷一郎さん=19日、東京都練馬区の自宅

 

 【東京】沖縄戦で本島における日本軍の組織的戦闘の終了後、久米島に配備されていた日本軍にスパイ容疑で虐殺された仲村渠明勇さんに命を救われた少年がいた。現在、東京都練馬区で暮らす渡嘉敷一郎さん(80)だ。渡嘉敷さんは久米島に上陸した米軍に捕らわれるのを恐れて池に飛び込んで命を絶とうとしたところ、仲村渠さんの呼び掛けで思いとどまった。同じ久米島出身の妻政子さん(80)が住民虐殺の歴史を語り継ぐ活動を続けており、一郎さんも参加して語り始めた。本紙に体験を語るのは初めてで「一番怖かったのは日本兵だった」と振り返る。

 

 沖縄本島で捕らわれた仲村渠さんは1945年6月26日、米軍と共に久米島に上陸し、住民に投降を呼び掛けていた。日本のポツダム宣言受諾後の8月18日、島にいた日本軍の通称「山の部隊」(鹿山正海軍通信隊長)の兵士に妻子と共に殺された。

 

 渡嘉敷さんは旧具志川村(現久米島町)仲泊の出身で、戦争中は50~60人で避難生活を送っていた。「ヒージャーミー(米国人)に殺される」との話が住民の間に広まっていった。米軍上陸後、母親の親戚と一緒に逃げていた渡嘉敷さんは、池に飛び込もうとしていた矢先、「もう戦争は終わったよ。もう死ぬことはないぞ」という仲村渠さんの呼び掛けを聞いた。「あれは西銘(集落)の明勇だ」と誰かが叫び、われに返った渡嘉敷さんは投身を思いとどまった。

 

 当時、島では日本軍の隊長からは「山に上がって来ない者は殺す」との命令が下されていた。上陸してきた米軍からは、日本兵が軍服を捨てて住民にまぎれこんでいることから「家に戻りなさい。戻らなければ殺す」と投降の呼び掛けが出ていたという。どちらを選択しても死を迫られるという苦しい状況に住民は置かれていた。

 

 渡嘉敷さんは「明勇さんは案内人として米軍に連れてこられていた。村人が隠れているところを回って、投降を説得するのが役割だった。明勇さんに命を助けられた。島の人にとっては恩人。それを、逃げるところを後ろから日本刀で切って殺されたと聞いた」と悔しそうな表情を浮かべた。
久米島であった日本兵の虐殺事件や、集団投身自殺寸前で思いとどまった体験などを話す渡嘉敷一郎さん(右)と妻の政子さん=19日、東京都練馬区の自宅

 

■ ほかにも住民虐殺が…

 

 久米島では日本軍による住民虐殺がほかにも起きている。渡嘉敷さんの妻政子さん(80)=同村仲地出身=は「島の人も関わったとされタブー(禁忌)となってきたが、何らかの形にして事実として伝えていかないといけない」と東京で島の沖縄戦について語り続けている。

 

 日本兵による住民虐殺は当時から住民の間でうわさになった。政子さんは「大人たちが屋号で『どこどこの誰々が殺されたよ』『部落の方で異様なことが起こっているよ』と話していたのを聞いていた」と話す。

 

 戦後も虐殺があったと聞いた場所に来ると、カヤを結んだ魔よけを手に通ったものだった。「子ども心にも、その時のことが思い出され、たまらない気持ちになった」。大人になって久米島の戦争の本を読んで、「ああ、あの話はそうだったのか」と記録と記憶がつながっていった。

 

 小学校1年で教えてくれた教諭が、島に配置されてい中野学校出身で「上原敏雄」を名乗る残置工作員だった。ある時、学校に米軍の憲兵が来て、2人で教諭を羽交い締めにして軍用車両で連行していった。その後の消息は知らないという。

 

 住民虐殺というテーマを語り継ぐのは重いため、得意の三線も交えて伝えている。島の悲劇にあえて向き合う夫婦。「今も残された者も重荷を背負いながら生きている」との思いを背に語り継いでいる。

 

 今年の慰霊の日は午後2時から、東京都練馬区男女共同参画センター「えーる」で、久米島沖縄戦について政子さんと一郎さんが語る会が催される。

 

久米島における沖縄戦での住民虐殺

 久米島に駐留した日本軍の通称「山の部隊」(鹿山正海軍通信隊長)が、6月26日の米軍上陸後にスパイ嫌疑で住民20人を殺害した。米兵に拉致された住民を「スパイ」と見なし、目隠しのまま銃剣で刺し、家に火をつけて焼き払うなどした。朝鮮人家族も犠牲になった。島には残置工作員具志川村に上原敏雄、仲里村に深町尚親を名乗る2人(いずれも偽名)が小学校に配置されており、住民虐殺への関与が疑われている。

 

終戦記念日:忘れてはいけないことがある 久米島事件の記録

8月15日、終戦記念日。しかし沖縄本島の西およそ100キロに位置する小さな島、久米島の住民にとっては、9月に入るまで悲劇が続いていた。しかもその悲劇は、味方であるはずの日本軍兵士によってもたらされたものだった。

周囲48キロほどの小さなこの島には、島の中央の山をはさんで、仲里村具志川村の2つの村がある。沖縄戦のさなか、この山頂には鹿山兵曹長をはじめ、30名ほどの日本海軍通信隊が駐屯していた。最初は島の住民から「山の友軍」と呼ばれ、食料供給などを受けていた彼らは、やがて米軍が久米島に接近するにつれて、次第に島の住民をスパイ視するようになった。1945年6月26日、アメリカ軍は久米島に上陸。その翌日の6月27日、山頂に駐屯する通信隊に、米軍からの降伏勧告書が届けられた。ところが「山の友軍」は、勧告書を届に来た仲里村郵便局員を、米軍のスパイだと決めつけたうえ銃殺してしまう。米軍と接触したというただそれだけの理由で。スパイであることを立証する具体的な証拠も、正当な裁判プロセスも無いまま、自国の民間人を銃殺したのである。

その後も、鹿山氏率いる日本海軍通信隊による久米島住民の虐殺は続いた。

6月29日、具志川村で2家族9名が通信隊によって斬殺される。この2家族のうちの2人が、アメリカ軍に捕らえられた後開放されたことから、アメリカ軍のスパイとされたのだ。そしてここでもまた、スパイとする具体的な根拠も裁判プロセスも一切無かった。通信隊の独断によって、しかもあろうことか家族もろとも、友軍であるはずの日本軍人によって、惨たらしく殺された。

8月15日、終戦。しかしその後も、久米島の悲劇は続いた。

8月18日、仲里村に隠れ住んでいた元海軍軍人の一家3人を惨殺。

8月20日、具志川村でスクラップ商を営む一家が鹿山氏の部下に襲われ、家族7人が惨殺された。この家の夫は朝鮮出身者だった。子供までもが無残に刺殺されたのは、「こやつも将来日本を売ることになる」「朝鮮の子供は大人になると何をするかわからない」などいう勝手な理由からだった。この事件の目撃者の一人は、後年こう述回している。「旧盆入りで、こうこうと明るい月夜の晩だったですよ。村民に変装した日本兵が一〇人ぐらいで、砂浜へ谷川さんの死体を捨てたのです。そのうち、兵隊の一人が小さな子供を抱えてきて、死体のそばに投げ落としたと思ったら、死体にとりすがってワアワア泣く。その子供に銃剣を浴びせたんですよ。何回も何回もトドメを刺すように切りきざんでいました。私はもう恐ろしくて膝がガクガクして・・・・・・・・・日本軍に死体の処理を命じられた私たち警防団員は、泣きながら海岸に穴を掘って埋めたのです。子供の断末魔の悲鳴がいまも耳に残るようで・・・・・・・・・本当にかわいそうだったですね。」(「沖縄の日本軍」大島幸雄著/新泉社より)

ようやく久米島終戦が訪れたのは、9月に入ってからだった。9月1日、日本軍上官が沖縄本島から派遣され、鹿山隊を説得。2日、鹿山隊は「終戦詔勅」を受け入れ、7日になってようやく全員投降したのだった。終戦から実に23日後のことだった。

一家7人が惨殺された現場に残る「痛恨之碑」。大きなガジュマルの木の下に建てられたこの碑には、犠牲となった7人の名前と共に、こう記されている。「天皇の軍隊に虐殺された久米島住民・久米島朝鮮人」と。 

* * * 

以下に引用するのは、鹿山元隊長へのインタビュー記事である。独断と偏見で住民を殺害した鹿山元隊長の行為は、決して許されるものではない。しかし同時に、このインタビューを読んで感じるのは、鹿山元隊長をこのような行為に駆り立てたのは「米軍の捕虜になったら、男は手足を切断されてから無残に殺され、女は繰り返しレイプされてから殺される」「国体護持のために身を捧げることこそが皇軍兵士の名誉である」という皇民化政策を、彼があまりにも素直に受け入れたということも一因ではないかということである。彼は、島民に対する加害者であると同時に、皇民化政策の被害者でもあるように思える。

 

「報告・久米島三二年目の夏」: ガンジーの小屋

以下に載せるのは、一九四五年夏に沖縄・久米島で起きた旧日本海軍久米島守備隊による現地住民虐殺事件のあらましをつづった記録である。ベトナム戦争時の一九六八年、ベトナム・ソンミ村で発生したアメリカ軍史上最大の汚点と言われるソンミ村虐殺事件から、「日本のソンミ事件」などとも呼ばれた。当時、ブログ主が雑誌等に発表したものを、事件の概要中心に抜き書きした短縮版である。

報告・久米島事件三十二年目の夏に

「……それおもんみるに二〇名の犠牲者は大戦終了後日本皇軍の言語に絶する無謀なる虐殺行為により悲惨なる最期を遂げたるが、その惨憺たる行為はいまなお追憶して戦慄を覚える次第なり。かかる非人道的不祥事は過去の謝誤れる日本皇軍軍国主義教育のなさしめたるものにして永久に看過なされざる史実なり……」
 陽が西に傾きかけてもうずいぶん経つというのに、暑さはいっこうに衰える気配をみせない。その酷暑の中で、久米島西本願寺住職・世世盛知郎氏の反戦の読経がつづく――。
「……しかるにかかる一大不祥事に対して国家として犠牲者の遺族になんらの謝罪も補償もなく今日に至るはまことに遺憾の至りなり。……このたび久米島訴訟を支える会を組織しもって国家に訴え、犠牲者の霊をなぐさめ、遺族への謝罪と補償を求むることとなれる……」

 ―― 一九七六年八月十八日夕刻。久米島太田辻のサトウキビ畑に囲まれた一角に、久米島訴訟を支える会の一員としてふたたび私は立っていた。目の前には『痛恨之碑』が二年前のあの除幕式のときとすこしも変わらぬ姿で建っている。
 碑だけでない。そこから望める海も、あの時と同じにきらきらと輝き、その海の眩しさを懸命に打ち消すかのように、碑の後方にかつて鹿山部隊がたてこもった大岳の山頂がくっきりと、夏空を黒くえぐって立つ。そして草いきれ、サトウキビと風の語らい……。
 すべてが二年前そのままだった。
 三二年前の夏、狂った皇軍が二〇名の住民を虐殺した時も、おそらくは久米島の自然はこのようにまぶしく、豊かに熟れきっていたに違いない。――こうべをたれ、碑に黙とうをささげながら、あらためて私は、こうした自然の中でくりひろげられた虐殺の凄惨をおもった。
 久米島住民虐殺事件の起こったのは、激戦がくりひろげられた沖縄戦がようやくに終結をみた一九四五年六月二十三日の直後から、日本の敗戦が決定した八月十五日の五日後までの、およそ二カ月のあいだにおいてだった。
 このわずか二カ月のあいだに、しかも沖縄においてはすでに事実上、戦闘はとうにおわっていた時期に、島の住民九家族二〇名の人たちが、米軍ではなく日本軍によって、つぎつぎと殺害されていったのである。
 以下、時間の経過を追い、個々のケースをできるだけ具体的に列挙してゆこう。

 虐殺は久米島に米軍が上陸した同年六月二十六日の翌日からはじまる。第一の被害者は本島首里の平良町出身で当時、派遣されて久米島郵便局に駐在していた有線電話保守係の安里正二郎さんである。
 前日の米軍上陸の報で山間の避難小屋に避難していた安里さんは、夜半、御座などを取りにひそかに自宅に戻って、翌二十七日未明、避難小屋に帰ろうとするところを武装米兵に発見され、駐屯地に連行された。米軍陣地内で安里さんは山にこもる鹿山正隊長宛ての降伏勧告状を託され、それを持ってただちに山にあがるように命令された。そむけば銃殺するというので、仕方なく大岳にゆき鹿山隊長にそれを届けたところ、鹿山は安里さんが勧告状を持ってきたことから、即座にスパイと決めつけ、その場で銃殺した。
「処刑は、私自身が短銃で一発撃ち、一発では苦しむので、両側から部下に銃剣で突かせた」(毎日新聞「鹿山正の証言」)
 鹿山は事件が公けになった去る七二年に、安里さん殺しをこのように証言している。
 安里さんの妻、カネ子さんも間接的な犠牲者である。久米島在住の彼女の姉さんである糸数和子さんが証言する。
「正二郎さんが二、三日帰らないので、カネ子は不安にかられ眠ることもできませんでした。正二郎さんが山で軍人に殺されたと聞き、ショックのあまり家を飛び出し、部落近くの山田川に身投げして死にました。彼女が自殺したので母もショックで寝込んで、間もなくあとを追うように亡くなった。母もカネ子も鹿山に殺されたのと同じです」
 カネ子さんは安里さんの子を宿していた。これから生まれ出てくる小さな生命をそのまま永劫の闇のかなたにつきおとしたのもまた鹿山であり、日本軍なのである。
       三
 安里さんを殺したわずか二日後の二十九日の夜、鹿山=日本軍は具志川村字北原(きたばる)において区民九名を集団虐殺する。
 九名の被害者の氏名は、①北原で牧場経営をしていた宮城栄明さんと、②その妻および③義弟。同じく北原地区で農業を営んでいた④比嘉亀さんと⑤その妻ツルさん、⑥長男の比嘉正山さんと⑦妻ツルさん。そして北原区長だった⑧小橋川共晃さん、⑨北原地区の警棒班長・糸類盛保さん、である。容疑は、米軍上陸前の六月十四日に鹿山守備隊が出した布告(情況が不利になり切迫するにつれて、鹿山は身勝手な道理に基づく布告を乱発した)――「米軍に拉致されたものが帰ってきたら、自宅に入れず、ただちに軍駐屯地に引致し、引き渡すべし。この命令に違反したらその家族はもちろん、部落の区長、警防班長は銃殺すべし」――にそむいたためというもの。
 虐殺のもようは、当時日本軍の一人として現場にいた沖縄出身兵K氏のつぎの証言で明らかにされた。
「宮城さんの家に集められた九人は、手足を針金で縛られ、目隠しされて立たされ『ひとりひとり殺せよ』と命令され、銃剣で次々刺したのです。一突きで死ななかったので、のたうちまわっている九人を何度も刺して殺し、八坪そこそこの住宅は血の海となり、全員が息絶えた処、火をつけて引き上げていったのです」
 家ごと焼き払われた死体は、いずれも黒こげでだれがだれだかまるで判別不能の有り様だったという。
 一昨年、石碑の除幕式で久米島を訪れた際に、九名の犠牲者のひとり小橋川共晃さんの奥さんに私は会った。彼女は、無残な黒こげの死体の中から入れ歯を目印に共晃さんの骨をかろうじてひろうことができた、と涙ながらに語ったあと、私と、同行の赤嶺氏にその後の苦しい生活ぶりをこう語っている。
「わたしはその頃三〇歳になったばかりで…小さな男の子三人を抱いて逃げ歩きました。二番目の子がいまのこの子(三歳になるお孫さん)と同じ年で…つらくて、辛くて、いつも猫いらずを持っていて、何度、あの子たちの口に(猫いらずを)押し込んで、母子心中しようとしたことか…」
 鹿山に殺された二〇名の遺家族すべてに多かれ少なかれ同じような苦しみが残った。一家離散、後追い自殺などが。鹿山=日本皇軍の所業は二重三重の悲劇を生んで、今日まで連綿と続いているのである。

       四

 北原の集団虐殺は島民を震え上がらせるに十分だった。この前後から、住民は山に立てこもる日本軍を極度に怖れるようになる。
「わたしたちは、敵の米軍よりも、味方であるべき日本軍がこわく、焼死体を埋葬することもできず、一か月近くもそのまま放置していました(北原の集団虐殺の直後)。海岸の米軍と、山の日本軍にはさまれ、鍾乳洞の奥深くに隠れていましたが、洞窟の中で餓死する者もあり、病死する者もいた。まったく悪夢のような洞穴生活でした。思い出すだけで身の毛が立つようなおもいです」(北原在住のNさん)
 ここで語られているように、日本軍を恐れて逃げまわった挙句に飢えて死んだり、体が弱って病死した人も間接的に日本軍に殺されたといえる。そしてその数だけでも四〇名をくだらなかったといわれている。
 八月十五日、日本の敗戦が「正式に」決定したが、久米島の情況はすこしも好転しない。むしろこれまでみてきた経過であきらかなように鹿山=日本軍はいよいよ凶暴化して、山賊以外の何物でもない殺人集団と化していた。こうした状況下で八月十五日、のちに「島を救った英雄」と讃えられて沖縄芝居にまで登場する仲村渠(なかんだかり)明勇さん一家三名の虐殺が遂行される。
 虐殺の現場は、美しい久米島のなかでもとりわけすばらしいところといわれるイーフの浜辺だった。一粒ひと粒が白いサンゴの砂からできた浜辺は、潮が退くとさながら白地の見事なじゅうたんを敷きつめたような景観を呈し、およそ一キロ海上にある奥武島(おうむじま)まで歩いて渡れるようになる。沖合の巨大なサンゴ礁が防波堤の役をつとめるため、淡いエメラルドグリーンの透明な渚は、流れる風ほどのゆるい速度の波以外を知らない。
 豊潤な久米島をもっとも佳く代表するこのイーフの浜で、久米島の自然と一万余の島民の生命を米軍の艦砲から救った一家は、軍刀で斬り殺されたうえ家を焼かれて土くれと化したのだった。
 明勇さん一家が鹿山ら日本軍に虐殺されるに至った経過はつぎのとおりである。
 当時、本島の嘉手納収容所に敗残兵として収容されていた久米島出身兵の明勇さんら三人に、米軍通訳兵が来て久米島を艦砲で攻略するという。そうなれば久米島住民の大半が死ぬ。そこで三人とも久米島は艦砲射撃の必要がないことを訴えて強調したが、米軍は半信半疑で信じない。「君らの誰かが水先案内人になってくれるなら艦砲せずに上陸する」と言ってきた。そこで明勇さんがその役をひきうけた。こうして六月二十六日、米軍は一発の艦砲も撃つことなく久米島に無血上陸した。
 だが、水先案内をした明勇さんを日本軍守備隊の鹿山隊長はスパイと決めつけ狙い始める。狙いは明勇さんひとりだけでなく実家に残る妻子にまで及んだ。危険を感じた明勇さんは妻子を実家からひそかに連れ出すとイーフの浜沿いにある一軒家の空き家に避難させた。
 幾週間かが無事に過ぎて一家が安心し始めた直後、居所を探り当てた日本軍鹿山部隊は、敗戦三日後の八月十八日、村民に変装して浜の一軒家を取り囲み、妻子もろとも虐殺してm、家に火を放ち焼き払ったのである。
 明勇さんは軍刀で左わき腹を約二〇センチ斬り裂かれてその場で絶命、妻のシゲさんは長男明広くんを抱いて台所入り口から裏手の垣のところまで斬りつけられながらも必死で逃げたがそこで息絶えた。明広くんは当時一歳二カ月だった。
 この事件でも間接的な犠牲者がいる。明勇さんの父の明仁さんである。明仁さんはわが子とその家族の無残な死に強いショックを受けて、生きる気力を失い、翌年に亡くなったのだった。
       五
 最後の犠牲者は、当時久米島に住んでいた朝鮮人の具仲会さん(日本名・谷川昇)一家七名であった。具さんは朝鮮釜山の出身で、妻のウタさんは沖縄久志村の出身。五人のこどもたちは長男一男君一〇歳、長女綾子さん八歳、二男次夫君六歳、二女八重子さん三歳、生後一年で未入籍の幼児ひとり。
 具さん一家に日本軍がかけた容疑もスパイ罪だったが、本当の理由は彼が朝鮮人であったからと思われる。朝鮮人であったがゆえに、彼は同じ島民の間でさえいわれなきさげすみを受けていた。当時の「皇民化教育体系」下の、日本人⇒沖縄人⇒朝鮮人という差別構造の中で、最底辺に属したゆえに、のちに述べるようなとりわけ残酷な殺され方をされたのであろう。
 痛恨之碑を建て、そして現在ようやくに国家責任を法的に明らかにして、天皇の戦争責任を追及する運動にまで成長した私たち久米島訴訟を支える会の、そもそもの提起者である富村順一氏が、三年前、たったひとりで自費でつくったパンフを売り歩きながらひたすら犠牲者の塔を建てたいとおもいつめたのも、朝鮮人一家のいかようにも理不尽な悲劇の深刻さを直感していたからにほかならない。
 いま私の手元にあるそのパンフの表紙にはおおきな明朝活字で、「死後も差別される朝鮮人」という題名が印刷されており、扉には、「謹んでこの小冊子を沖縄で虐殺された谷川さん一家をはじめとする朝鮮人の人々の霊に捧げ、その慰霊塔を殉難の地・沖縄に建設することを誓います。富村純一」と記されている。
 ここで、「殉難の地」は必ずしも久米島だけを指していないし、「殉難」の内容も虐殺だけにとどまらない。さらに彼の告発の含む意味の先鋭さを私なりに解かってきたと思うからあえて断言するのだが、この数行の言葉の背後には、じつに強烈な〝沖縄人による沖縄および沖縄人批判〟が隠されている。「殉難」は、つまり単に日本軍による、大和人(やまとんちゅう)によるものばかりではなくて、たとえば富村順一が少年時代に目撃した國場組という沖縄の搾取階級であり、さらには皇民化教育の下で、「日本人化」を志向させられる中で、さらに下層の存在として朝鮮人を〝必要とし〟、差別してきた沖縄人総体をまでつつみこんだ言葉なのではないのか。話を戻す。
 具さん一家虐殺は八月二十日の夜に行われたが、それは文字通り凄惨を極めたものであった。
 日本軍がくる前、知人から忠告を受けた具さんはその日一家をあげて避難を開始する直前だった。具仲会さんと次夫君は字鳥島の知人宅へ明るいうちに避難し、ウタさんと残りの子供たちは自宅でまだ避難準備中に、夕暮れになって日本兵に囲まれた。ウタさんは一歳の幼児を背負い、一男君の手を引いて逃げ出したが、上江洲地区のガジュマルの大樹の下に来たところで捕まり、殺される。以下は目撃者の証言。
「母が『一男は昇の子ではないから、この子だけは助けてくれ、殺さないでください』と泣きすすりながら嘆願していた。日本兵は、ウタさんを斬り殺した後、ふたりの子供らをウタさんの死骸のほうに突き出して斬り殺した。ウタさんの最期の叫び声、子供らのあの姿を思い出すといまも胸が詰まる思いです…」
「綾子と八重子は、家の中でぶるぶる泣いていたが、母ちゃんのところへ連れてゆくから出ておいでと誘われて出てきたところをふたり別々に日本軍の兵士がひきずって自宅から七〇〇メートルほど離れた、字山里の西側農道で斬殺した。ふたりの死体は側溝に並べて藁をかぶせてありました」
 具仲会さんと次夫君もまもなく日本軍に発見される。
「昇(具仲会さんのこと)は壕から引き出され、首にロープをかけて生きたまま、海岸までおよそ三〇〇メートルほど引きずっていかれたようです。八月二十日、煌々と明るい月夜の晩でした。村民に変装した日本兵一〇人くらいで護岸の上から谷川昇の死体を投げ捨て、そのあとひとりの兵隊がちいさな子供をかかえてきて父の死体のそばに投げ落としました。子供は父の死体にしがみついてわーわーと泣き崩れていましたが、その子を軍刀で何回も何回も切り刻んでいました。私はこわくて足もぶるぶる震えました。日本軍から『見せしめだ、ほおっておけ』ともいうし、『あとで死体を片付けよ』とも命じられたので、私たち警防団員は涙をすすりながら、海岸に穴を掘って埋めました。あのときの子供の、断末魔の鳴き声はいまも耳にのこっているようです…」

       六

 虐殺の地・久米島に私たちは四日間滞在した。支える会としてあらかじめ予定したのは十八日の現地集会と翌十九日の虐殺現場の巡回の二日間だった。それに倍する期間とどまったのは特別、新しい企てを持ったからでも何でもない。二十日沖縄全域を襲った小型台風のため、飛行便も船便もストップしてしまったからである。
 だが、そのおかげで私たちは久米島の本土にいては視えなかった部分や視えにくかった部分を多少ともみることができた。たとえば島の人たちの事件に対する想いである。はじめて久米島に来た人が大部分であったが、二度目の私もふくめて大半は久米島事件に対する島の人々の感情は複雑ではあるが、たぶん、あまり触れられたくないもの、といった要素がつよいのではないかと考えてきた。不幸な忌まわしい想い出は一刻も早く忘れてしまいたいのが人情だし、当時、鹿山部隊には「日本兵」として幾人かの沖縄出身者(うちなんちゅう)が加わっていたり、犠牲者の居所をなかば強制されたとはいえ通報した島の人たちもいて、事件のことを口にすることで身内に累が及ぶという複雑な情況があったからである。
 実際、ことさら事件に無関心を装う傾向は否めなかった。現地集会の呼びかけビラを全戸に配ったにもかかわらず、当日参列した島民は数人であった。
 けれども一方で、次のような事実もあった。具志川村役場近くにある小さな地元紙・久米島新聞社の人が教えてくれたものである。「事件が本土のマスコミで騒がれる六年くらい前のことですが、青年団有志で一時、碑を建てる話があったんです。結局、マスコミに取り上げられて事件が有名になるとひとりでに立ち消えになってしまいましたが。いまあの事件のことを黙して語らないのは事実ですが、事件のことは親から子へと語り継がれて、事件後に生まれた青年たちの大半は口づてに事件のことは知っているのです」と。
 久米島は沖縄の離島のなかでも地味に富む豊かな島である。周囲を美しいサンゴ礁に囲まれ陽光を浴びてのびやかに躍動するてんけいてきな南の島だ。琉球王朝の昔から、人々の暮らしは自給自足しながら豊かであった。長寿の地に多い小さな蜜柑シーカーサがそこここにたわわに実っていて、事実、長生きの人が多い。

 三十二年目の夏が過ぎた。あの時、イーフの白い浜に流れた仲村渠明勇さんら犠牲者二〇名余の鮮血は、砂に吸われてあとかたもない。だが、それは消えたのではなかった。事件を知ったすべての人々の心にあまねく拡がり止むことなく告発をつづけているのではないのか。誰に対して? 戦争責任を曖昧なまま、天皇制なるものをいまもおしいただく日本国家と日本人全体に対してである。

   ◆参考文献 大島幸夫著『沖縄の日本軍』新泉社刊、沖教組戦争犯罪追及委編『これが日本軍だ』