土地を返せ ~ 「見せしめの虫食い返還、続く切り崩し工作」(沖縄タイムス記事より)

 

東京一極集中というのはなにも政治だけにいえることではない。そもそも、日本のメディアが、一極集中主義であり、多様性に欠けるのだ。

 

地元紙にしか書けない記事がある。そうした良記事を、しっかりとブレンドして全国に伝えていくことの大切さこそが、これからの時代に大切だと思う。

 

見せしめの虫食い返還、続く切り崩し工作「それでも種火だけは置いておけば…」
2023年1月21日 

[ボーダーレス 伊江島の78年](9)

 真謝の抵抗は、絶え間なく切り崩し工作にさらされた。

 米軍は1955年、家や畑を強制接収すると、接収地に立ち入るためのパス(通行証)を発行しようとした。受け取れば接収を認めたことになる、と住民はこぞって拒否。そんな中、一人の男性がパスを申請した、と米空軍の部隊史は記す。真謝にいられなくなった一家の引っ越しを軍用車で手伝い、畑まで与えて優遇したという。
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 分断策にあらがう住民たちは、沖縄本島へ出て連帯を求めた。同様に土地を奪われた宜野湾村(当時)伊佐浜の闘いともつながり、やがて沖縄全体に「島ぐるみ闘争」が広がる導火線となった。

 56年にピークを迎えた島ぐるみ闘争は、軍用地料値上げなどの妥協成立を受け、収束していく。「このころから真謝は分裂していった」と、安里正春さん(84)は振り返る。

 父の正江さん(故人)も早い時期に契約した一人。渡嘉敷島で娘を虐殺した日本軍への怒りは深く、逆に米軍には協力的だった。「安定的に地料も入るし、米軍を刺激しない方がいい、ということだったと思う」。それぞれの事情を背景に、契約する住民が静かに増えていった。

 阿波根昌鴻さんら契約拒否を貫く反戦地主は日本復帰が近づいた67年、接収地内で「団結道場」の起工式を開いた。米軍に対する反転攻勢のシンボル。米軍の側も強硬姿勢で臨んだ。

 ブルドーザーのような重機が突っ込んできて、住民を蹴散らした。当時6歳の平安山良尚(よしひさ)さん(61)は逃げ惑い、「父さん母さんがアメリカーに捕まった」と近所の家に駆け込んだ。両親ら6人はその日のうちに釈放されたが、もう帰ってこないのか、と不安に襲われたことを覚えている。

 阿波根さんたちはいったん引き下がり、70年まで待って団結道場を完成させた。そして迎えた復帰。対(たい)峙(じ)する相手は日本政府に変わったが、分断策は変わらなかった。

 反戦地主の黙認耕作地だけを狙い撃ちにする「虫食い返還」が続いた。土地を自由に利用し軍用地料も得られる伊江島全体の慣習から、平安山さんら反戦地主だけが見せしめのようにはじき出された。

 反戦地主は今、数えられるほどに減った。「泣く泣く契約した人もいる。みんな生活のためだから仕方ない」と、平安山さんは泰然と語る。「それでも、種火だけは置いておけば、またいつか大きくなる日も来るだろう」。ちょうど、真謝の闘いが島ぐるみ闘争の導火線になったように。(編集委員・阿部岳)