「娘さんは元気で生きている、とうそをつかれ…実は虐殺されていた・強制移住先で起きた惨劇」(沖縄タイムス 2023年1月13日)

 

取材の大切さ

住民や朝鮮人軍夫を手にかけ過ぎてしまった赤松の証言はいつもばらばらで、一貫しない。まるで殺人の恐怖を味わうように歪んだ言葉を使いながら、村人が処刑を望んだ、自分で死んだ、喜んで死んでいった、を繰り返すのである。

 

戦後は、集団自決の犠牲者数の多さと、まだ赤松隊の副官らが保守系団体と一体となって積極的に言論活動を繰り広げていたため、住民も証言することは簡単なことではなかった。「察してください」という住民の言葉が、『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言に記録されている。

 

当時は言えなかったが、今だから言える証言、というものが多く存在するはずである。

 

今回は沖縄タイムスの取材記事。

こうした取材一つ一つが今だからこそいえる事実を照らし出す。

 

「娘さんは元気で生きている」とうそをつかれ…実は虐殺されていた

「娘さんは元気で生きている」とうそをつかれ…実は虐殺されていた 強制移住先で起きた惨劇

沖縄タイムス 2023年1月13日 


目次

    むごい最期
    「まだ生きていたのか」
    「早く迎えに来て」母も早世

[ボーダーレス 伊江島の78年](2)

安里安子さんの死

 米軍は沖縄戦伊江島を攻略すると、日本本土攻撃の拠点に使うため全住民を島外に追い出した。激烈な戦闘を生き延びた住民は、米軍の船で運ばれた慶良間諸島で、今度は日本軍の敗残兵に直面した。

 

 安里正春さん(84)は渡嘉敷島で、姉安子さんを失った。山中にこもる赤松嘉次大尉の部隊に投降を勧告するため、米軍が伊江島住民の男女6人を派遣した。安子さんも選ばれてしまった。

むごい最期

 赤松隊は6人に理不尽なスパイ容疑をかけて虐殺した。最期についてはいろんな証言があり、どれが本当か分からない。どれも、むごいものだ。

 

 安子さんが「親に一言も言わないで来た。せめてお母さんに会わせて」と哀願するのを兵士が「あの世に行って会え」と切り捨てた、「助けて」と叫んで逃げる安子さんを日本刀を持った兵士が追いかけた木に縛られて白骨化していた-。安子さんが家族の元に帰れなかった事実だけは変わらない。

 

 窮乏していた赤松隊は夜陰に乗じて下山し、安里さんの父正江さんに「娘さんを預かっている。毛布を持たせてください」などと物資をせびった「元気で生きている」とうそを聞かされ、正江さんは娘を殺した赤松隊に着物を持たせた。

「まだ生きていたのか」

 島で集団自決(強制集団死)を引き起こし、さらに住民や朝鮮人軍夫十数人を直接虐殺した赤松隊は1945年8月、ようやく投降した。赤松大尉の姿を見た正江さんは、殴りかかろうとして米軍に制止された。「裁判にかけるから」と言われ、思いとどまった。

 

 25年後、赤松大尉が渡嘉敷島の慰霊祭に参加するため来県した。新聞を読んだ安里さんがそのことを伝えると、正江さんはじっと下を見て言葉を絞り出した。「まだ生きていたのか。戦争犯罪人として処刑されたと思っていた」。日本復帰にも「日本人は野蛮だ」と言って反対した。

「早く迎えに来て」母も早世

 母マサさんは夜、「安子、なぜ早く迎えに来ないか」などとうなされた。病気がちで心労も重なり、50代前半で亡くなった。

 

 45年に伊江島から移住させられたのは渡嘉敷島へ約1700人、慶留間島座間味村)へ約400人の合わせて約2100人。山を下りた元々の住民と合わせて6700人分を養う食料は島々になく、米軍の配給も全く足りなかった

 

 慶良間諸島の住民は米軍宛ての陳情で訴えた。「老人、小児は殆(ほとん)ど栄養不良に陥り、近時余病を併発し多数の死者を見るに至れり」。配給と、伊江島住民の島外移転を求めた。

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