無邪気な特攻隊員「沖縄の歌を教えてください」 沖縄タイムス (2020年6月21日)

 

(写図説明)2007年に撮影された震洋隊秘匿壕の外観(金武町教育委員会提供)

(写図説明)震洋隊秘匿壕跡地図

 

[消えた戦跡 もの言わぬ語り部たち]

(4)震洋隊秘匿壕 金武町

無邪気な特攻隊員「沖縄の歌を教えてください」 道が通り跡形なくなった出撃拠点 構築に多くの住民動員

沖縄タイムス 

2020年6月21日 14:00

 2019年3月に全線開通した国道329号金武バイパス。全長5・6キロの道路整備で交通の便が良くなった一方で、姿を消した戦争遺跡がある。金武火力発電所の近くにあった「震洋隊秘匿壕」だ。沖縄戦中、250キロの爆薬を積んで米艦船に体当たりする特攻艇を格納した壕だった。

 

 残っていた秘匿壕は3カ所で、入り口幅約2~5メートル、奥行きは約14~24メートル。1945年1月26日から4月4日まで金武に駐屯していた第22震洋特別攻撃隊の特攻艇「震洋」を格納するために掘られ、構築作業には若い女性(18~24歳)を含む多くの住民が駆り出された。

 

 町史によると、20歳前後の隊員たちは、駐屯直後から地域の女性たちの話題の中心だった。壕構築はきつい作業だったが、同世代の隊員と女性たちは合間に会話を交わすようになり、一番年下で無邪気な性格の隊員は「沖縄の歌を教えてください」と言って歌を覚えていた。

 

 そんな隊員たちの任務は、爆薬を積んだ特攻艇で米艦船に突っ込むことで、生還不可能なものだった。

 

 3月14日、沖合演習中に米軍機の機銃掃射を受け、隊員19人が死亡。同27日、30日の出撃では米艦船を発見できず12隻すべてが帰還したが、4月3日は1隻が命中し、爆発炎上した。翌4日、米軍の進攻に伴い特攻隊は陸戦への移行を決定。演習中に負傷し、洞窟に避難していた隊員は米軍の攻撃で全員死亡し、山中に拠点を移したその他の隊員の生死は分かっていない。

 

 町史には、壕構築作業に参加した女性たちの証言が残る。「隊員たちが、しきりに『若桜の花が時を待たずして、散るのも定めなり』と言っていたことが今でも忘れられない。快活でりりしく、あどけなかった姿を二度と親に見せることができなかった宿命を考えると気の毒でならない」

 

 今年5月、記者が秘匿壕跡を探し、近くのビーチで海水浴を楽しんでいた地元の高校生たちに所在を尋ねると、「どこのこと?」と首をかしげた。

 

 町教育委員会の玉元孝治さんの案内で現地に立ったが、道路の両脇に原野が残るだけで、跡形はすっかりなかった。「近所の人たちは記憶にあるかもしれないが、他の地域や若い人たちは全くわからないと思う」と玉元さん。現物保存の代わりに、記録報告書が残されている。(社会部・榮門琴音)

(写図説明)震洋隊秘匿壕があった傾斜地を掘削して開通した金武バイパス=5月29日、金武町金武

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■