沖縄タイムス 2024年3月22日「第32軍ができた日」特集 ~ あの日 あの時 戦場で ~ 若者とたどる沖縄戦80年」

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 1944年3月22日に、大本営が日本軍の第32軍を創設し、沖縄に配備されることが決まった。部隊配備により、陣地構築や軍への食糧供出が日常になるなど、県民生活は軍事一色に染められていく。あれから80年。政府は再び南西諸島の防衛力強化を唱え、沖縄に自衛隊配備を進めている。二度と惨禍を繰り返さないために沖縄戦をどう継承していくか。80年前の記憶が刻まれた場所を体験者と若者がたどり、平和を考える。

 

 国道507号は、全国の国道で一番大きい番号をその名に持つ。沖縄本島南部を縦断する新たなアクセス道路で、交通量も多い。

 この道路の工事に向けた南風原町津嘉山の発掘調査で2006年、日本軍の司令部壕跡が姿を現した。「チカシモー」「高津嘉山」と呼ばれる二つの丘陵の地下に張り巡らされた壕の総延長は2キロといわれる。

 80年前の1944年3月22日、第32軍が創設された。戦況が悪化した7月、米軍の沖縄上陸が確実になったと見て全島の要塞化を進めた。最初の司令部壕の場所に選ばれたのが津嘉山だった。構築は同年夏ごろから始まった。

 

 当時15歳だった與座章健さん(95)=南風原町=は、司令部壕から数百メートルの場所に住んでいた。「つかざんトンネル」や片側2車線の真っすぐな道を指さし、「この辺は全く変わったよ」と語る。

 

 傍らには沖縄戦を学び、発信している沖縄大学4年の本村杏珠さん(22)。與座さんは過去の記憶をたぐり、話し始めた。

 


第32軍が当初司令部壕を構築した津嘉山の丘陵周辺で戦前の様子を話す與座章健さん(右)と大学生の本村杏珠さん=2023年12月、南風原町津嘉山のつかざんトンネル前(小宮健撮影)

 



授業なくなり、陣地構築に

 県立第一中学校(現在の首里高校)在学中は、自宅から首里の校舎まで片道5キロの坂の多い道のりを歩いて通った。授業はなくなり、校庭のわら人形を木銃で突くような日々。陣地構築にも駆り出された。

 

戦前の沖縄県立第一中学校(那覇市歴史博物館提供)

 

 父や母、きょうだいと一緒に生活していたが、兄は軍に取られ、6歳下の妹は宮崎に疎開した。「寒くてひもじい思いをしていないかね、とお母さんはいつも心配していた」と振り返る。

 南風原の各集落には日本軍の部隊が駐屯するようになり、民家にも兵隊が宿泊。與座さんの家にも10人くらいの兵隊が宿泊していたという。

 

入隊へ、沈黙する父から承諾印

 米軍の上陸が迫った1945年3月下旬。沖縄師範学校や旧制中学に通っていた少年たちが「鉄血勤皇隊」として駆り出された。

 

県立第一中学校の生徒たち。前列右端が與座章健さん=1944年(養秀同窓会提供)

 

 16歳になっていた與座さんも入隊のため、親に承諾印をもらうよう指示された。「父親がどんな気持ちだったかは分からないが、助役をしていた立場上か、一言も言わず印鑑を押した」と振り返る。

 「家族でごちそうを食べてその晩、『これが家族との別れになるんだなあ』と思い、涙を拭きながら、とぼとぼ首里に戻ったのが忘れられんさ」

 與座さんの話に耳を傾けながら、当時の様子を想像した本村さんは「家族がバラバラになり、戦争が迫りくる状況は恐ろしかったと思う」とつぶやいた。

 

 

 南風原町津嘉山の司令部壕を後にした第32軍は、1945年3月下旬には首里城地下の新しい司令部壕を本格的に運用し始めたと考えられている。総延長約1キロ、深い所で地下30メートルに達する壕には約千人の将兵と沖縄の軍属や学徒、「慰安婦」とみられる女性たちがいたという。 

 

第32軍司令部壕(沖縄県公文書館所蔵)

 

1日1回の食事で壕堀りに奔走

 16歳で鉄血勤皇隊に動員された與座さんは、第32軍の壕を掘る作業に駆り出された。現在の「一中健児之塔」(那覇市首里金城町)付近にある一中の壕で寝泊まりしながら、作業に奔走。壕内の土をトロッコに載せて外に運び出していた。

 「外でトロッコの土をスコップで放り出すから時間がかかって危険であるわけ。飛行機は飛んでくるし、艦砲射撃はくるし」

 かつての作業場所とみられる県立芸術大学首里金城キャンパス付近を訪れた與座さんは、路線バスや車が行き交う周囲の景色を見渡しながら当時の様子を振り返った。

 


沖縄戦時、自身が壕堀り作業をしていたとみられる場所の近くで、当時の様子を振り返る與座章健さん(左)と話を聞く本村杏珠さん=2023年12月、那覇市・県立芸術大学首里金城キャンパス前(小宮健撮影)

 

 2人1組で精いっぱいトロッコを押すものの、芋と米が混ざった1日1回ほどの食事しか口にできていない状態では力が出ない。トロッコが動かないと、そばを通る兵隊に「お前たち、元気出せ」と尻を蹴飛ばされた。


遺書を書きながら「短い一生だった」

 配属将校から言われるままに遺書を書いたことも覚えている。壕の中で紙とペンを渡された。内容はほとんど記憶にないが「恐らく命を落とす。短い一生だったなあと思った」と話す。

 與座さんの話を真剣な表情で聞いていた本村さんは「もっと青春を楽しみたかっただろうし、やり残したこともたくさんあったのかなと思う。若者が遺書を書かされる時代は、沖縄戦が最後であってほしい」と願った。

 

県立一中の生徒が家族に宛てて書いた遺書=一中学徒資料展示室

 

 與座さんは1945年4月中旬、部隊の食糧不足を理由に除隊を命じられる。家族と南部を逃げ回る中、米軍の捕虜になり、旧玉城村(現南城市百名の収容所で生活した。戦後は琉球政府金融検査庁に勤め、ドルから円の通貨交換の前に秘密裏に実施した「通貨確認」などに携わった。


一中生200人以上が犠牲に

 戦争で命を落とした一中生は200人以上に上り、同級生も多く犠牲になった。與座さんは退職後、沖縄戦に動員された21校の元学徒らでつくる「元全学徒の会」の共同代表として、沖縄戦を語り継ぐ活動にも取り組んだ。

 

一中健児之塔。碑の前では毎年、慰霊祭が執り行われている

 年齢を重ね、最近は証言を求められることも少なくなっていたが、「戦争体験者が亡くなっていく中で、語るのは自分の使命」と話す。本村さんから「與座さんにとって平和とは何ですか」と質問され、一息入れてこう語った。

 「よく物事を考えないと、ばかなところへ走っていってしまう。人間というのは、気が付いたら大変なことになってしまっているということかね」
(社会部・當銘悠)

 

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