[語れども語れども・うまんちゅの戦争体験](458) 

喜屋武初子さん(101) 

北中城村島袋 逃げた山奥 飢えに苦しむ 2歳の長男 命落とす寸前

2024年4月28日

島袋から喜如嘉に疎開

 沖縄戦が迫っていた1944年、私は大宜味村喜如嘉に住んでいた。夫が師範学校を卒業して喜如嘉国民学校に赴任したので、地元の北中城村島袋から2歳の長男と共に、喜如嘉の区長だった平良真次さん(人間国宝の故平良敏子さんの父)宅に間借りして生活していた。

 

 当時は長女がおなかの中にいたので、平良さんが自分の娘のように私のことを大事にしてくれた。

 

 10・10空襲で那覇が焼け野原になった頃、山原にも空襲があって喜如嘉の小学校も爆撃された。その時、平良さんが「山奥に逃げるなら一緒に逃げよう」と声をかけてくれた。

 

 夫は召集され、今帰仁の運天港に配属されていた。私は生まれたばかりの長女と長男を連れて山奥に逃げた。山奥に着くと、タンガマ(炭を作る小屋)があり、そこに他の集落の人たちと一緒に隠れた。

 

 山の上から軍用機がよく見えた。まったく情報もない中で、落ちていく日本軍の軍用機を米国のものだと思っていたが実はそうではなかった。

 

喜如嘉にも空襲

 夫は運天港で魚雷を運ぶ作業をしていたが、運天港が米軍から攻撃されたので、他の部隊と一緒になって名護の嘉津宇岳の部隊に配属された。夫は戦況が悪化していると感じ、もし玉砕するのであれば、家族と共にと考えて喜如嘉に帰ってきた。これまでいたタンガマから、夫も一緒にもっと山奥に逃げた。昼は歩かないで、夜歩いた。東村が見える山にたどり着いた。

 

 山の生活は苦しかった。山原には那覇などからたくさん避難してくる人もいて、食べるものも少ない。山では土を掘ってサツマイモを探しても、掘り尽くされた後なので、イモのつるとひげを炊いて食べた。その他は、あく抜きしたソテツのでんぷん。長男に食べさせようと差し出したら、泣いてばかりいた。

 

 食べるものがなく、長男は痩せ衰え、骨と皮になり、おなかは大きく膨らんだ。命を落とす寸前だった。

 

 ずっと山にいるので時間も分からない。いつだったか覚えていないが「山を集中攻撃する」という話が回ってきた。米軍がまいたビラで話が回っていたのかもしれない。ソテツのでんぷんが入った袋を一つ持って家族全員で下山した。下りる時に海を見ると、米軍の軍艦がいっぱい浮かんでいた。海は黒かった。

 

ふるさと奪われ

 山を下りて喜如嘉の集落で過ごしていたある日、夫の両親ら島袋の人たちが福山(今の宜野座村)の収容所にいることを知った。福山で夫の両親に会うことができた。

 

 戦争が終わり、福山から島袋へ帰った。住宅のほとんどが壊され、ふるさとは米軍の通信施設になっていた。

 

 私は3人きょうだいだが、姉は糸満のガマの中で生後9カ月の娘を亡くし、栄養失調で4歳の息子と病身の夫も亡くし、親族合わせて11人が犠牲になっていた。弟は、戦争がなければ医者になっていたはずだった。

 戦争は命も奪い、時間も奪い、ふるさとも奪う。二度と戦争をしてはいけない。

編集後記

 取材時、山の中で一緒に生き延びた長男の馨さん(82)も同席してくれた。「命どぅ宝」と戦争を生き抜いたからこそ、初子さんは子ども7人、約20人の孫やひ孫に囲まれている。来年は戦後80年。沖縄の現状を見れば「新たな戦前」という声が聞こえてくる。世界を見ればロシアによるウクライナ侵攻、パレスチナ自治区ガザではイスラエル軍イスラム組織ハマスの戦闘が続く。体験者が語る言葉に耳を澄ませ、平和を考えたい。(中部報道部・吉川毅)

=日曜日掲載

(写図説明)「戦争は命も奪い、時間も奪い、ふるさとも奪う」と話す喜屋武初子さん=9日、北中城村島袋の自宅