琉球新報 2020年6月16日 「[首里城 象徴になるまで](21)/第2部 戦をくぐって/留魂壕/師範学生、城内で犠牲に」

首里城 象徴になるまで](21)/第2部 戦をくぐって/留魂壕/師範学生、城内で犠牲に


2020年6月16日 

 

古堅実吉さんが行き来した留魂壕と発電施設を結ぶルート。城壁崩壊後はほぼ直線距離で行けるようになった。首里城から発電施設までの具体的道のりは定かではない。

 

 1945年3月22日夜。首里城に隣接する沖縄師範学校男子部の寄宿舎には明かりがともり、学生たちの笑い声が響いた。年に1度の部屋替えに伴う「分散会」。そこに古堅実吉さん(90)=元衆議院議員、当時15歳=が、国頭村安田の実家から戻ってきた。米軍が沖縄本島に迫り、学生たちに帰校命令が下っていた。

 

 母と幼い妹、病気で寝たきりの兄を残してきたことに後ろ髪を引かれながら、100キロの道のりを1週間かけて歩いた。帰還を喜ぶ友人たちの笑顔に孤独と緊張がほどけ、その夜は久しぶりにぐっすりと眠った。

 

 だれも翌朝の「開戦」を予想していなかった。

 

 23日に米軍の爆撃が始まり、学生たちは首里城の東(あがり)のアザナ北側の城壁下に掘った「留魂壕(りゅうこんごう)」に逃げ込んだ。約300メートル離れた所に第32軍司令部壕があり、牛島満司令官らが入って首里城は臨戦態勢になった。

 

 「師範学校職員生徒は第32軍司令官の命により、本日より全員鉄血勤皇隊として軍に徴された」。31日、留魂壕前で命令が下った。学生たちは軍服に着替え、情報伝達、物資運搬、攻撃のため戦場に出て行った。

 

 古堅さんは、留魂壕から城壁沿いに迂回(うかい)して南へ行き、司令部壕の第5坑口脇にあった発電施設と金城町の井戸の間を往復し冷却水を運んだ。1日数千発という攻撃は、かつて琉球王国の中枢を守った高さ10数メートルの城壁を破壊。古堅さんは崩れた城壁を越え、首里城を横切って行くようになった。砲爆撃を避けるのに必死で、正殿がいつ消えたのか、覚えていない。

 

 鉄血勤皇師範隊員の犠牲者は226人首里城内で亡くなった久場良雄さんが最初だった。4月21日、砲弾を受けて顔と足の半分を失い、留魂壕内で苦しみ息を引き取った。古堅さんは寄宿舎の同室だった上級生の死に衝撃を受け、自らの運命に重ね、おびえた。

 

 今、首里城公園内にある留魂壕の前には「ガマ遺構」の説明板があり、琉球王国以前から使われた洞窟だと書かれている。留魂壕については「先の大戦中に師範学校の生徒たちが掘った留魂壕がありました」とあるのみ。「地獄の戦場若い人たちに伝える場所として整備してほしい」。戦火に消えた師範学校最後の入学生、古堅さんは願う。

首里城取材班・城間有)