宮古島の野戦病院にて ~ 関口清 ~ 「戦没画学生の遺作初公開」沖縄タイムス (2023年)

 

現在、79年前に軍が宮古島にしたのと似たやり方で、強引に基地建設をすすめる日本政府だが、

 

沖縄の住民は歴史から教訓を学んでも、度を越したトップダウン構造で敗戦まで突き進んだ日本は、離島から撤退したまま、「外地」での失敗から学ぶことができなかったのだろうか。内向きの日本は、閉じられた物語の中で「栄光」の物語に酔いしれるが、見えない存在として切り捨てた場所で「経験」してきた事実からは目を背け続け、結果として、同じ過ちを愚かにも繰り返すのだ。

 

歴史離島をどれだけ要塞化しても、一旦占領されれば「敵」の上陸なくして瓦解する島の軍隊。

 

そこに送り込まれた兵士たちもまた、島の住民と同じように、捨てられた民であったのだ。

 

母の作るカレーライスや五目飯。浮かぶ食べ物の妄想を一心に鉛筆で記録した学徒。

 

沖縄タイムス[戦後78年]

戦没画学生の遺作初公開 あすから東京 80年経て平和訴え

2023年10月19日 5:00

 

(写図説明)関口清さんの手帳。自画像の脇に「もうこれ以上はやせられまい」との文字が添えられていた

 

 戦没学生の遺稿集「きけ わだつみのこえ」(1949年刊行)の挿絵の作者で、終戦直後に沖縄で戦病死した画学生関口清さんの遺作が20日から東京・有楽町で開かれる「平和のための遺書・遺品展」で初めて一般公開される。出征前に描かれたとみられる未完成の風景画で、約80年の時を経て平和の尊さを訴えかける。

 

 大学生らが戦地に送られた「学徒出陣」は43年10月21日に明治神宮外苑競技場(現国立競技場)で壮行会が開催され、今年で80年。遺書展を主催する「わだつみのこえ記念館」の岡安茂祐理事(80)は「この絵が完成しなかったことの意味を考えてほしい」と話す。

 

 やせこけた兵士の自画像、家族一人一人の似顔絵…。前橋市出身の関口さんは東京美術学校を繰り上げ卒業し43年11月に陸軍に入営、死の直前まで手帳に絵を描き続けた。「俺はこの戦争の、そして人類のいや総(すべ)ての結末がみたい。生きねばならぬ」とも記し、45年8月19日に沖縄・宮古島野戦病院で戦病死した。26歳だった。

 

 遺品は弟の妻が引き継ぎ、多くは2006年に記念館が設立される前に寄託された。今回の作品は弟の妻が亡くなる最期まで手元で守り続けてきた。ともに保管されていた関口さんの母親とされる人物画も展示される。

 

 風景を描いた油絵は関口さんが出征前、一度故郷に戻った43年ごろ描かれたとみられる。洋画家の故野見山暁治さんらが記録した「祈りの画集」に掲載されたが実物が展示されたことはなかった。野見山さんは画集で関口さんに関し「天性のエカキとはこんな男のことかと、私は内心おそれたものだ」と書いている。

 

 今月24日まで開催される遺書展では、記念館が収集してきた戦没学生の手紙や手記など、過去最大規模の計約70人分を紹介する。岡田裕之館長(94)は「戦争への批判や疑問、家族や恋人と引き裂かれる苦しみを読み、平和のために生かしてほしい」と話している。

 

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