本土の捕虜収容所「マッカーサーへの嘆願書 ~ 直江津捕虜収容所で起きた“2つの悲劇” とは」 (新潟放送 2022年8月31日)

良い記事。

しかし、日本の国内の捕虜収容所と同時に、米軍などによる日本兵捕虜の収容所なども取材したほうがよいだろう。日本の捕虜政策の異常さがより分かりやすくなり、また連合国各国の軍事法廷の異常な厳しさのそこに何があったのかもわかりやすくなるだろう。

 

 『マッカーサーへの嘆願書』

『マッカーサーへの嘆願書』直江津捕虜収容所で起きた“2つの悲劇” とは

TBS NEWS DIG (1ページ)

新潟放送 2022年8月31日(水) 

1942年、上越市直江津に建てられた捕虜収容所にはおよそ300人のオーストラリア人が収容され、過酷な生活を強いられて多数の死者が出ました。そして、終戦後は収容所の職員が裁判で責任を問われ8人が死刑となりました。戦争が生んだ2つの悲劇です。

上越日豪協会 関勝会長】「こちらにあるのが法務死された方8人の方の碑です」

 


海が広がる上越市川原町にある平和記念公園
その公園に一つの石碑があります。

上越日豪協会 関勝会長】「捕虜収容所には捕虜の人もいたし、捕虜を監視する人もいた」

こう語るのは、上越日豪協会の関勝会長です。

 

この直江津の地で起きた悲劇を将来に語り次ぐ活動を行っています。川原町にあったのが直江津捕虜収容所です。

 

 

およそ300人のオーストラリア人捕虜が収容され、港近くの工場で炭鉱などの作業に従事させられていました。

 


当時、捕虜収容所近くで暮らしていた石塚洋子さん(92)は、その様子を覚えていました。

 

【捕虜収容所近くに居住 石塚洋子さん】「(当時)高田の学校行ってたんですけど、駅で私乗り換えて郷津まで乗り換えるもんだから、寒いから(駅の中)入って待ってると、どこかで働いてきたらしい捕虜たちがぞろぞろと帰ってくのに出会ったりして、あぁ捕虜も大変なんだなあと思いながら見ていた覚えがあります。でも、あくまでも敵の捕虜だから、同情の気持ちはなかったような気しますね。仕方がないなと思って」

 


石塚さんは終戦後、オーストラリア人の捕虜や、その家族らと交流を深めるなど当時の記憶を語り継ぐ活動を行っていました。今年で92歳。当時学生だった石塚洋子さんは捕虜の様子をこう記憶しています。

【捕虜収容所近くに居住 石塚洋子さん】「海岸へいろいろ揚げられた石炭や何かを、積み替える仕事してたような気がしますね。雑用ですけどね、でも、あの頃そういう雑用のようなのはたくさんあったから、多分役割としてさせられていたと思います。何か罰があるみたいで、気を遣いながら、働いてもらってたようなそんな雰囲気がありましたね」

当時は、日本国内も厳しい食糧難でした。そんな中、悲劇は起きました。

上越日豪協会 関勝会長】「食料と同時に、気候風土も全然違うところですからね。しかもここは12月になると、しかも海すぐそばですからね、相当な強風が吹いたりするわけですから、最悪の事態じゃないかと思うわけです」

 

捕虜たちが生活していた場所は暖房の無い朽ちた倉庫。十分な食料などを与えられないまま工場や炭鉱で働かされ、栄養失調などで60人の捕虜が亡くなりました。

 

 

雪が降る極寒の中、死んだ仲間を自分たちで運ぶことも指示されました。直江津捕虜収容所で起きた悲劇はこれだけでは終わりませんでした。

 

【捕虜収容所近くに居住 石塚洋子さん】「収容所で働いていた人が捕虜を虐待した。戦後、捕虜を虐待したという罪で、死刑が出たんですよ」

終戦後の軍事裁判によって捕虜収容所で警備などを担当した8人の職員が捕虜虐待罪に問われ処刑されました。死刑になった職員の中には、元々は軍と全く関係のない農家や桶職人などをしていた人もいました。

 

 

石塚さんは、当時収容所で何があったか記録しようと職員の遺族とも交流していました。

【捕虜収容所近くに居住 石塚洋子さん】「悔しい思いして亡くなったと思います。自分では正しいという指導の下に行ったことが後で虐待したんだって、向こうから責められて罪になったりとかそういう人もいましたし」

捕虜虐待などの罪を問われ、連合国各国の軍事法廷で裁かれたB・C級戦犯は合わせて920人が処刑されました。平和記念公園展示館には裁判で死刑となった職員の遺書の写しも展示されています。中には、無実を訴えるものもありました。


「私は殺人をしてはおらぬことをここに断言できる。又捕虜は病気で死んだ。又叩いたため負傷したことも絶対にないのである。では私は殺される理由がないことになる。弱肉強食という言葉がある故、これも因縁で止む得ない。一切この世に誠はない」

 

 

これは死刑が決まった職員の親族が刑の減刑を求めてGHQ司令官のマッカーサーに宛てて送った嘆願書です。

 

「連合軍最高司令部マッカーサー司令官閣下。横浜軍事裁判で絞首刑の判決を受けた元直江津第四分所勤務元陸軍軍属の母です。昭和18年8月で第四分所をやめたにも拘わらず昭和19年に勤務をしたとして罪を負わせ、また弁護士の言い分を少しも聞き入れてなく不平裁判でありますがどうか私たちの信頼するマッカーサー司令閣下の許で今一度再審査をして頂き減刑されんことを切にお願い致します」

 


【捕虜収容所近くに居住 石塚洋子さん】「その当時は国の方針に従ってなければ、自分も罪人になるような感じだから。戦時中の日本は怖かったんですよ。忠義でなければ駄目だっていうふうに言われて」


死刑が執行されると、家族のもとに法務省から刑の執行を知らせる手紙が送られたそうです。

【捕虜収容所近くに居住 石塚洋子さん】「なんていうかな、みんな一生懸命やったことが全部裏目に出て、そういう犯罪にも繋がるっていう、そんな変な時代でしたね。だからね、つらい方がいっぱいいました。自分で始めたわけじゃないけど、戦争なんてするもんじゃないと思ったね」


直江津捕虜収容所で亡くなったオーストラリア兵と死刑となった日本人職員を慰霊する「平和の集い」が行われ、参列者は鎮魂の祈りを捧げました。上越日豪協会の関会長は1942年生まれ。直江津捕虜収容所については生まれて間もないため記憶がありませんが戦争の悲劇を風化させまいと、語り継ぐ活動を続けていきます。

 

上越日豪協会 関勝会長】「この場所は悲劇が起こりましたけども、悲劇は歴史の中の一部ですから悲劇は悲劇として伝えなければ忘れ去られてしまいますんで、悲劇をつたえてもらい、それを今後に生かして次の世代に伝えていきたいなと思います」


二度と悲劇を起こさない…。悲劇が生まれた直江津の地では終戦から77年たった今も平和への思いを繋げています。

 

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■