西日本新聞「琉球難民 ~ 台湾で生活苦 終戦後も一時留め置かれ」 (2015年7月17日)

 

琉球難民」台湾で生活苦 終戦後も一時留め置かれ

「琉球難民」台湾で生活苦 終戦後も一時留め置かれ|【西日本新聞me】

2015/7/17

#戦後70年 vol.9#戦後70年特集

 

疎開者の出身地や疎開先が詳しく記された「沖縄県疎開者調」。「琉球難民」と読める書き付けが添えられている(国史館台湾文献館所蔵)

 

沖縄からの疎開者たちが暮らしていたという建物。今は空き家が多いが、バロック風の装飾は日本統治時代のままだ=台南市佳里区

 

 日本が太平洋戦争に敗れるより前、台湾は長らく「日本」であった。1944年の夏以降、この地は九州と共に沖縄からの疎開先とされ、石垣島宮古島から1万人を超える人々が身を寄せた。避難生活は戦況の悪化につれて悲惨なものとなり、終戦後も一時台湾に留め置かれた疎開者は「琉球難民」とも呼ばれた。台湾の人々の記憶の中に、彼らの姿を尋ねた。

 

危険を知らず

 台湾南部の街「佳里」は北回帰線の南30キロに位置する熱帯の農村である。日本統治時代は明治製糖の工場が置かれ、周囲にサトウキビ畑が広がった。今は台南市編入され佳里区となっているが、街で一番にぎやかな通りだった「中山路」沿いには、かつて疎開した人たちが暮らした建物がそのまま残されていた。

 「このあたり。女の人とお年寄り、子どもが何人かずつね」

 黄棖旺さん(89)は沖縄の人々のことを台湾語で「リュウキュウレン(琉球人)」と呼んだ。当時、すぐ近くの「佳里医院」の薬局に住み込みで働いていた。

 「そのころはもう空襲が激しくて、台湾人はもっと田舎の方に疎開してたから、空き家だった」

 戦火を逃れるため台湾に渡った子どもたちやお年寄りは、地元の人々が危険を感じて立ち去った場所に、それとは知らず、身を寄せたことになる。

 

「かわいそう」

 佳里医院の呉新栄院長(1907~67)は当時の街の様子を日記に書き留めていた。呉院長は台南では著名な文筆家でもあった。44年9月5日付にこうあった。

 「琉球から疎開民二百余名佳里に割り当てられたので、明日から来るとのことである」

 疎開時期がほぼ特定できる。この年の1月12日には「台湾南部初空襲」との記述。疎開8カ月前、すでに空襲は始まっていたのだ。

 呉院長は病院に隣接した敷地に四つの防空壕(ごう)をつくり、うち二つを家族用、残りは患者と沖縄からの疎開者に開放していた。 

 黄さんも、疎開者と一緒に何度も防空壕に逃げ込んだ。当時19歳。疎開者とは年齢差もあり、それ以上の濃厚な接触はなかった、という。誰もが自分が生き抜くことに必死な時代だった。

 「でもね、覚えてる。琉球人の生活は苦しかった。われわれより貧しい。とにかくね。かわいそうだった。気の毒だった」

 

死亡率は1割

 台湾疎開の全容を知ることは容易ではない。だが台湾の国史館台湾文献館には手がかりとなる「沖縄県疎開者調」という資料が現存した。

 それによると、45年9月末時点の沖縄からの疎開者は計1万2939人で、このうち親族など頼る先がなく集団疎開した「無縁故」疎開者は8570人。多くが宮古島石垣島など先島諸島の出身だった。台湾での疎開先は佳里などの「台南」が2564人で最も多かった。

 台湾総督府疎開者1人当たり1日50銭の支給を約束していたが支援はやがて滞った。「着物を芋と換えて生活していた」「子どもを姑(しゅうとめ)にあずけて台湾人の農家に日雇いに出た」。沖縄県読谷村読谷村史・戦時記録上巻に疎開者の証言が残る。親類縁者から切り離された暮らしは、自給自足が可能な台湾の農家より格段に貧しく、衰弱したお年寄りや幼い子はマラリアなどの病に命を奪われた。

 郷土史家の詹評仁氏によると、44年11月~45年12月、佳里の隣町、麻豆(台南市麻豆区)では、沖縄からの疎開者321人のうち33人が死亡している。死亡率は1割という高率。黄さんの記憶とも重なる、疎開者の悲惨である。

 

子どもが犠牲

 終戦は台湾疎開の終わりを意味しなかった。

 日本の敗戦で沖縄は米軍に占領された。一方、台湾は中華民国の統治下に置かれる。同じ日本だった沖縄と台湾の分断。疎開者たちは沖縄に戻れなくなる。

 45年11月1日には、台湾から宮古島へ向かった密航船「栄丸」が座礁沈没し、100人以上が亡くなっている。自力で引き揚げようとした疎開者たちだった。

 台湾の沖縄出身者で組織した沖縄同郷会連合会は翌12月、疎開者はマラリアなどで「死亡者1162人に達し悲惨見るに忍びざる実情」として台湾当局に早期送還を要請している。当局の公文書に「琉球難民」の文字が見えるのはこの頃のことだ。引き揚げの完了は、翌46年末を待たなければならなかった。

 呉新栄院長の日記の研究でも知られる真理大学台湾文学資料館(台南市)名誉館長の張良沢さん(75)は言う。

 「沖縄も台湾も、外来勢力に翻弄(ほんろう)され、過酷な歴史を歩んだ。それは『戦後』の一言では片付けられない。そして最大の犠牲者はいつも、逃げ場のない子どもだった」

※参考文献…松田良孝「台湾疎開」(南山舎)

 

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